紀要論文 <研究論文>吉村観阿と山田屋太郎兵衛
Yoshimura Kan'a and Yamadaya Tarobee

宮武, 慶之

56pp.33 - 53 , 2017-10-20 , 国際日本文化研究センター , International Research Center for Japanese Studies
NII書誌ID(NCID):AN10088118
内容記述
 江戸時代後期に活躍した町人数寄者である吉村観阿(かんあ)(1765―1848)は三十四歳の時出家し、その後は浅草に白醉庵という庵を結んで過ごした。観阿の出家については、遁世の念が強かったことに加え、生家が破産の危機に瀕したためとされる。また四十歳の行状で判明していることは松江藩七代藩主松平治郷(はるさと)(不昧〔ふまい〕/1751―1818)に遇されたことである。しかしながら従来の研究では観阿の生家と出家に至るまでの経緯、不昧に遇された理由については明らかにされていない。
 現在、東京大学史料編纂が所蔵する新発田藩十代藩主溝口直諒(なおあき)(翠濤〔すいとう〕/1799―1858)自筆の『戯画肖像並略伝』から、観阿の生家は仙台藩伊達家の用金調達であった山田屋と判明する。
 仙台藩と山田屋との関係については、すでに郷土史家の佐々久が論じていた。佐々によれば山田屋の当主太郎兵衛が家財を傾けることとなるのは明和四年(1767)の仙台藩と広島藩が請負った工事で、財政面で貢献からであると指摘している。しかしながら資料の不足より山田屋と観阿を結びつけることができていなかった。そこで本稿では山田屋が工事でどのような貢献したのかについて、慶應義塾大学文学部古文書室が所蔵する「一礼之事」から明らかにする。
 観阿の四十歳の行状として注目すべきことに、不昧のほか、佐原鞠塢(きくう)(1762―1831)とも交流していたことが確認できた。そこで三者の交流から壮年期の行状を明らかにする。
 本稿では、従来不明であった生家山田屋と青年期、壮年期の観阿の行状を明らかにする。さらにこれらの行状が後年、観阿の江戸での活躍にどのような影響するのかについても論じることとする。
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