紀要論文 人間的自由の本質――土塊・人間・神

山口, 尚

内容記述
土塊としての人間の低さと神の似姿としての人間の高さを同時に語ること――このようなモチーフが自由と責任の哲学にはある。本稿はこの点を指摘する。この指摘は何の役に立つのか。ゲイリー・ワトソンは彼の論文集の目標を「論点をより良く理解すること」に置いたが(Watson 2004b, p.1 傍点強調は引用者による)、本稿が目指すところも同じである。私は自由と責任の哲学の究極的な関心の理解を深めたい。そして、これまで自由と責任の哲学者が試みてきたことについて、その真価をより深い次元で把握したい。本稿は、以上の目標設定のもとで、フランクファートの論文「意志の自由と人格という概念」(Frankfurt 1971)を論じる1。なぜか。その理由は、フランクファートの論考とそれに対する批判(とりわけWatson 1975 とWolf 1987)を考察すれば、自由と責任の哲学者が実際に人間の高さと低さをたいへん気にしていることが判明するからである(そしてそこから自由と責任をめぐる問題に取りくむ者はみなそれを気にすべきことが示唆される)。本稿はフランクファートの立場が正しいか間違っているかにこだわらない。本稿は、むしろ、《意志の自由を論じる際にフランクファートが何をたいへん気にしているのか》にこだわりたい。なぜなら――本稿を通じて明らかになるように――こうした点にこそ哲学的に重要な事柄が存しているからである。
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