学位論文 『源氏物語』の死と身体

塩見, 優

2016-06-09
内容記述
古代より人々は「死」を畏怖すべきものとしてとらえてきたようである。それは、シュメール神話などからもわかる。だが、「死」は常に恐ろしいものとして描かれるわけではない。本論文が研究対象とする『源氏物語』も、死を「美しいもの」と捉えている。なぜ「死」を『源氏物語』は美しく描いたのだろうか。そのように描くのは、「死」をどのように認識しているからなのであろうか。「死」についての研究は様々な視点からなされている。宗教、死者と生者との関係、噂、和歌表現、身体表現など多岐にわたる。本論では、「身体」に注目する。昨今の研究において、身体が個人の本質を規定するという構造の中で、語りの仕組みをとらえるというものがある。「身体」は、髪、声、動作、衣装など様々な領域をさす。この「身体」を丁寧に読み解くことで、『源氏物語』内の登場人物たちが、どのように「死」と向き合ってきたのかについて考えていく。第一章では、死者の身体の名称について考察した。「身体」を扱う上で、死者の身体の名称をどうするか、という問題にまず当たる。死者の身体を示す語は、「死体」、「遺体」、「屍」、「骸」など多くの言葉があるが、その一つ一つの定義には、死者への尊敬の念や、魂の有無、身体状態などが絡んでいる。そのため、第一節では、『源氏物語』とそれ以前の作品を分析し、平安時代にどのような名称で死者の身体が表現されていたかを確認した。第二節では、第一節で分析した内容を発展させ、火葬後の「遺骨」の名称にどのような表現が用いられているかについて調査した。第二章では、『源氏物語』正編の死者について扱った。特に残された生者の「まなざし」に注目した。第一節の葵上は、『源氏物語』内で唯一腐敗する身体を持つ。彼女が腐敗するまで見つめ続けた、光源氏と父大臣の「まなざし」の意味とその変容について考察した。第二節の玉鬘と柏木は、「足」の存在が人々に注目される人物である。玉鬘は、都に出てくるまで「足」が不自由な人物という噂を流されていた。また、柏木は「足」の素晴らしさが語られる蹴鞠の名手であった。物語の中で彼らの「足」の描写がどのように変化していくかをみた。第三節は、篝火巻の舞台装置や玉鬘の「身体」が、夕顔の臨終場面と重なることを確認し、「死」をどのように人々が弔うのかを考えた。第四節では、紫上の仮死を中心に、人々の噂と認識の問題を探った。第三章では、「骸」を巡る人々について考察した。第一節の落葉宮は、母一条御息所の骸に「添ひ臥す」という行為が特徴的である。彼女は「添ひ臥す」という行為により、大好きな母親と一体化しようとしたのであろう。この一体化願望は、第二節の大君にも引き継がれていく。大君は父八宮の影を追い求め、最終的には「死」を選択することとなった。その大君の「骸」を見た薫もまた、死者の影を追い求める。それについて考察したのが、第三節である。そして、物語は「浮舟」という人物に何人もの死者の影を重ねるようになってしまったことを第四節で確認した。第三章では、人々が誰かが亡くなるとその代理を「なにか」に求める構図に注目し、繰り返される「死者の代理」について考察した。補論では、作品を変え『栄花物語』における死者をめぐる表現を『源氏物語』や『うつほ物語』との比較を通し読み解いた。以上、第一章から補論にわたり、主に『源氏物語』の「死」にまつわる表現を探ってきた。『源氏物語』が「死」をどのようにとらえていたのか、という点について明確な答えは出ていないが、本論では、徹底して「死」と「身体」の関わりについて考察した。個人個人では注目される「死」を、『源氏物語』全体を通して考えた時に、何か新しい視点が見つかるのではないかと思い、このテーマだけにこだわってきた。私個人が新しい成果だと考えることができるのは、第一章と第三章と補論である。第一章は、今まで言語学の分野でも整理されることがほとんどなかった「から」、「かばね」、「ほね」、「こつ」の用法を限られた作品の中とはいえ、整理できた。また、第三章については、一条御息所と八宮の死に共通点があるとわかったことは大きな発見だと思う。親子間における「死」の問題として個々の研究は進められてきたが、この二人の「死」に関わりがあるとは考えられてこなかった。親の性別は違うが、求婚された時、親の「代理」を求め、その状況を避けようとする二人の子の様子は共通している。一見関わりがないように見える両者であるが、その描写には重なるところがある。正編と宇治十帖の「死」のとらえ方が異なるものではなく、共通する部分もあることがわかる一つの手がかりとなろう。補論については、『栄花物語』の「死」の場面を史実との関わりの中で考察する先行研究は多いが、一つの「仕草」だけに注目した論は少ない。本論では「抱く」という行為は、親の蘇生への願いを込めた行為と解釈した。「史実」に縛られるのではなく、一つの「物語」として読んでいくことも必要なのではないかと思う。個々の論では、先行研究の足元にも及ばぬ点も多いが、総合的に、徹底して死の「身体」だけを総合的に見ようとした点に本論の意義を見出したい。
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http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3932/1/abstract_K259.pdf

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