Thesis or Dissertation 菱川師宣研究 : 古風と当風を描く絵師

阿美古, 理恵

2016-06-09
Description
菱川師宣(?〜一六九四)は、江戸に近い安房国保田(千葉県鋸南町保田)に縫箔師菱川吉左衛門の子として生まれ、幼少の頃から染織の下絵を描いて絵に親しんだと考えられている。江戸に出て絵入り版本の挿絵画家として活躍を始めた師宣は、寛文十二年刊『武家百人一首』という版本に江戸の挿絵画家として最初の署名を明記するまでに成長して行く。天和期には、師宣の描く当世風俗画は「菱川様の吾妻俤」と俳諧にまでうたわれるほど、江戸の大衆に広く支持されていた。師宣の描く活き活きとした当世風俗画は、絵だけで充分に鑑賞を楽しめるものであり、それまで文が主で絵が従であった挿絵本の段階から、絵が紙面の大部分を占める形式の絵本や一枚摺りの組物へと、版画における絵画表現の場を飛躍的に拡大させた。師宣は、木版という複製手段によって良質な絵画を安価に供給し、庶民に気軽に絵画を鑑賞することの楽しさを広めたのである。師宣は活躍当時から「浮世絵師」と呼ばれていたが、自ら「浮世絵師」と名乗ったことはない。師宣は署名に「大和絵師」あるいは「日本絵師」という肩書を冠していたのである。しかしながら、師宣が活躍していた時、京都では土佐派が、江戸では住吉派が「和画士住吉」という印章を用い、大和絵の本流を担っていた。では、師宣の言う「大和絵」とはどのようなものだろうか。なぜ師宣は、「浮世絵師」ではなく「大和絵師」「日本絵師」と名乗ったのだろうか。師宣の画業のどのような点が浮世絵の祖と呼ばれる要素となったのか。その評価はいつ確立し、現代に至るのか。そして、師宣が言う「大和絵」は従来の大和絵と何が異なり、師宣は「大和絵師」と名乗るにあたってどのように画技研鑽を行っていたのか。本論文では、師宣の当世風俗を描いた作品と古典を素材とする作品(源氏絵、徒然草絵、歌仙絵など)という二つのグループを研究対象として、当世と古典という異なるジャンルを描き分けた師宣の作画姿勢に着目する。すなわち、「浮世絵師」としての師宣像と「大和絵師」としての師宣像の成立を明らかにしていくのである。以下、各章での考察を略述する。第一章では、師宣が浮世絵の祖とされる理由を明らかにするため、『浮世絵類考』「追考」の「菱川師宣伝并系図」を記した山東京伝における師宣考証について考察した。『浮世絵類考』と「追考」における京伝と大田南畝の記述から、当世風俗を描き出して浮世絵を創始したという点では、岩佐又兵衛に先を譲ってはいるが、肉筆画のみを描いた又兵衛に対して、師宣は当世風俗を一枚摺の版画にして庶民に広く提供したという点において、浮世絵の始祖と評価されていたことが分かった。また、「戀童図」に対する京伝の作品鑑定とこれに附属した京伝の書簡二通、「菱川師宣傳」、「菱川師宣門人の系」に示された京伝による師宣の伝記考証の過程を考察することで、京伝の師宣の伝記考証や作品鑑定の精度は、南畝や曳尾庵、竹塘等の文化人との関わりの中で培われた完成度の高いものであることが窺われた。「浮世絵の始祖」とする師宣評価は、山東京伝によって確かなものとなり、現在にも受け継がれているのである。続いて、師宣が「大和絵師」「日本絵師」と名乗る理由を探るため、第二章では、まず、師宣がいう「大和絵」とはなにかを師宣が制作した版本や絵本の序文や跋文からそれに関する記述を集めて検証した。その結果、「浮世絵」と「大和絵」は明確に分けられる概念ではなく、『花鳥絵づくし』に「古伝に自当流大和絵を書合わしとりあつめ」とあるように、師宣の言う「大和絵」は常に「古伝」と対峙されていることが分かった。師宣の言う「大和絵」とは、「古伝」に「菱川一流の当風を書加え」て描いた、大和で一番の新しい絵なのである。次に、師宣が「大和絵」を描くにあたって基盤とした「古伝」について考察するため、師宣における既成画派の学習の跡を師宣作品の中に捜した。その結果、師宣が版本の挿絵として巷間に流通した図様だけでなく、立詠等、貞門の俳諧師たちとの交友関係を通して狩野派の粉本や岩佐派の作品の表現手法を入手していること、また、土佐派の作品に接してはそれを写し、描き方を吸収していたことを明らかにした。師宣は狩野派、岩佐派、土佐派の画法を画題によって使い分け、諸流派の画法で描いた図様を絵本に描き不特定多数に広く披露することで、掛軸や絵巻、屏風等の肉筆画作品の需要拡大に努めていたのである。第三章では、師宣が「大和絵」という言葉を「古伝」と対峙させていることに着目し、既成諸派が古くから描き継いできた源氏物語、徒然草、歌仙という古典的な画題を取り上げ、師宣がそれをどのように享受し、独自の変容を加えていったかを見ていった。当時、源氏物語や徒然草、百人一首等、古典を主題とした梗概書や注釈書が版本によって盛んに作られ、人々に広く愛好されており、土佐派や住吉派、狩野派等によって古典を題材とした肉筆絵画が作成され、その図様が粉本となり、定型化していたのである。師宣は、狩野派や土佐派、住吉派による伝統的な図様を版本に描き、安価に広く一般に普及させる一方で、その伝統図様を念頭に置きながらも、狂歌や俳諧における古典の俗化の趣向や岩佐派や狩野派に発する古典の戯画化の手法や岩佐派の卑俗な表現を取り入れて、古典の登場人物の姿態に滑稽、好色味を盛り込むとともに、当時の俳諧や演劇の趣向を反映させて、服装を江戸の風俗に変えて当世化することにより、菱川一流の当風を書加えて描いた「大和絵」、つまり大和で一番の新しい絵を作り出していったのである。師宣以後に活躍した奥村政信等の浮世絵師たちの古典を絵画化する姿勢には、土佐派や狩野派に由来する伝統的な図様を用い、教養として享受された王朝文学の雅やかな雰囲気を守ろうとする志向と、物語の世界を滑稽、好色化し、さらには当世に置き換えて描き出すことにより、その機智や洒落を楽しもうとする志向の、二つの面が認められる。こうした浮世絵師による古典の絵画化の姿勢は、師宣によって作られたのである。従来、師宣は当世風俗画家としての面が強調され、師宣の画業は近世初期風俗画から寛文美人画に至る風俗画の流れにのみ位置づけられてきた観があるが、師宣が制作した古典画題の作品に目を向けると、師宣が狩野派や岩佐派、土佐派、住吉派の図様や作画手法を積極的に取り入れ、利用していることが分かる。師宣は当世風俗画での人気を獲得する一方で、同時代の画壇の表現に敏感に反応し、古典画題を描いていたのである。「大和絵師」、「日本絵師」という肩書には、古風も当風の画題も自在に描くことができる画技を持つという師宣の矜持が込められているのである。師宣の当世風俗の美人画が「菱川様の吾妻俤」と詠われ、その人気を不動のものとした天和年間は、慶長八年(一六〇三)に江戸に幕府が開かれてから数えても八十年ほどしか経過していなかった。師宣は木版によって良質な絵画を大量に生産することによって安価に供給し、新開地である江戸において力を付けてきた大衆に、気軽に絵画を鑑賞することの楽しさを広めたのである。また、師宣は『屏風掛物絵尽』等の多様な画題を収めた版本を出版することによって図案を一般に提供していた。多様な画題を収めた絵本は、作画の手本としても用いられたものでもあろうが、客の求めがあれば、師宣は絵筆をとって肉筆画を制作し、掛幅、画巻、屏風など多様な形状に仕立ていたと推察される。師宣は版本や版画に描き、その魅力が一般に周知された図様を肉筆画のモティーフとして改めて再生産することで、裕福な町人だけでなく、武家や貴族などの貴層の顧客をも獲得していったと考えられる。師宣の画業において、版画と肉筆画の主題と制作状況は、相互に関係し合っていたのである。
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