Thesis or Dissertation 神宮伝奏の研究

渡辺, 修

2015-08-24
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第1部「神宮伝奏の成立」第1章「神宮上卿の成立」:その成立は、康和4(1102)年に伊勢神宮で発生した大事件に驚愕した堀河天皇が、急遽、神宮についての仗議開催を蔵人に指示し、外叔にあたり、信頼する久我雅実に対して仗議を取り仕切るように命じたことであった。次に神宮上卿が常置化された、永暦2(1161)年から文治2(1186)年迄の時期は後白河院政下であり、当時の神宮上卿人事は院司などその近臣公卿を軸として行われ、神宮行政は法皇の決裁によって行われていた。鎌倉期における建久4(1193)年から文永11(1274)年迄の時期は、延べ12名しか確認することができず、神宮上卿制度が次第に衰退した。第2章「神宮伝奏の成立」:後白河院政期において成立した伝奏制度が分化したことにより、弘安2(1279)年に神宮伝奏の活動を初めて確認できる。その補任と活動が顕著にみられるのは、15世紀以降のことである。その半ば迄は神宮伝奏と神宮上卿が併置されており、神宮行政のなかでも「雑訴」「伝奏奉書」「奏聞」は神宮伝奏が担当し、「官符請印」「日時定」「軒廊御卜」は神宮上卿が担当しており、両者の間で役割分担がなされていたことを指摘できる。第3章「神宮奏事始の成立」:光厳院政下における伝奏制度の強化と拡大は必然的にその主要な機能であった「奏事」の政務における位置づけの上昇をもたらし、同院政下の観応2(1351)年、平安時代の政始を引き継ぎ、年頭にあたり、政務を開始する意義をもった「奏事始」が成立した。その後、それらが神宮奏事始、賀茂奏事始に分化したが、神宮奏事始は、永和2(1376)年までに成立した。第2部「神宮伝奏の補任」第1章「近世神宮伝奏の補任」:江戸時代における神宮伝奏・神宮上卿の補任について検討した結果、注目すべきことは、安永8(1779)年の光格天皇即位以降、就任者に占める清華家公卿の割合が増加し、神宮上卿職を清華家と特定の羽林家公卿が独占し、同職の家職化が進んだり、就任者に占める議奏就任者の割合も増加したりしたことである。清華家公卿の割合増加については、平安末期の神宮上卿は、清華家公卿が約6割を占めていたことからも、名称変更をはじめとする、古代的な神宮上卿に復古させようとする動きの一環であったと考える。近世における神宮伝奏・神宮上卿の補任と退任について検討すると、文禄・寛永年間の事例から神宮伝奏の人事が円滑に進まなかったことがわかる。そこで、その要因について神宮伝奏の退任理由をみることによって明らかにした。それらは、親族の死去、親族にできた服仮、本人、親族、家人の病気、娘の出産、触穢の際には辞職したことであり、厳格に清浄性を保つことが求められた役職であったことであると考える。第2章「近世神宮伝奏の行動規範」:近世前期においては神宮伝奏も就任直後に彼らに対して同職在任中に避けるべき触穢の内容について質問した。その質問と回答が詳細に記されているのが、寛文13(1673)年9月に神祇伯白川雅喬王が記した『神宮伝奏之間事 転法輪相談条々』である。神宮伝奏の就任者が頻繁に交代した最大の理由は、こうした日常生活における厳格な規範の存在であったことを指摘できる。第3章「近世神宮伝奏の記録」:18世紀半ばから19世紀後半にかけて、多くの神宮上卿が盛んにその記録の作成、親族を始めとする神宮上卿経験者の記録の披見、書写を行った。特に中山愛親が定めた神宮上卿在任中の心得であった「神宮定条々」は延べ6人の神宮上卿によって半世紀以上にわたり、披見、書写され続けた。第3部「神宮伝奏の機能」第1章「戦国織豊期の神宮伝奏」:中御門宣胤や柳原資定の神宮伝奏としての活動をみると、朝廷・幕府ともに衰微するなかで神宮式年遷宮が途絶、仮殿遷宮も容易ではなかった当時においても、朝廷における神宮行政は、天皇―神宮伝奏のラインによって行われ、宣胤や資定は、主体的に神宮伝奏を勤め、単に奏請と伝宣を行うだけではなく、神宮行政の責任者として積極的にその牽引役を果たしていたことを指摘できる。第2章「近世の神宮奏事始」:江戸幕府が成立すると、神宮伝奏および神宮行政の在り方も大きく変化した。天和4(1684)年から貞享5(1688)年にかけて一条兼輝が行った関白参勤の再興、神宮伝奏への儀式所作の指示、摂政による奏事目録の内覧によって、神宮奏事始の性格は神宮伝奏が主体となって行う儀式から摂政、関白の指示により神宮伝奏が行う儀式へと変化した。第3章「近世神宮神主への叙位」:天保15(1844)年の内宮四禰宜による従三位申請について注目すべきことは、祭主がその叙位を先例に基づいて強く主張し、関白も賀茂社禰宜に同様の先例があることにより、容易に認めたことである。このことは寛文10(1670)年の内宮一禰宜に対する正三位叙位、延享4(1747)年の大宮司に対する従三位叙位の過程と比較して祭主の発言力が強化したことを指摘できる。第4章「近世朝廷と神宮式年遷宮」:江戸時代の朝廷における神宮式年遷宮の準備過程について次のことに注目すべきである。寛文9(1669)年度の場合、関白が遷宮祭祀日時定の執行日決定に際して武家伝奏の内諾を求め、さらに、武家伝奏は幕府の意向として執行日の変更を要請し、それが変更された。これに対して、文化7(1810)年の準備過程において、光格天皇の意向により、初めて同祭祀の執行日が祭主藤波の内諾を得て決定され、仁孝天皇下の文政12(1829)年度の場合も遷宮祭祀の執行日決定に際して祭主は祭祀内勘文日時に関する自らの内諾を得ることを朝廷に要請し、天皇もその内諾を求め、関白が祭主の要請によって正遷宮祭の執行日を変更したことである。第5章「近世の神宮例幣使発遣」:江戸時代における神宮例幣使発遣の準備過程における神宮上卿の活動について注目すべきことは、安永8(1779)年に神宮上卿正親町公明の意見具申によって、神宮例幣使発遣儀式の準備過程が、旧例に復され、幣帛奉納に際して両宮で行われる直会饗膳における勧盃順序が是正されたことである。
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