Thesis or Dissertation 映画における屠畜・食肉の表象 : フランスとアメリカの作品の検討を中心に

岡田, 尚文

2015-06-30
Description
屠畜(abattage)とは生きた動物から食肉を作り出すための一連の行為をいい、それが集約的・継続的に行われるのが「屠場(abattoir)」と呼ばれる場所である。映画はスクリーンに屠畜とその結果に生じる食肉、そして屠場を、一般に考えられている以上に、頻繁に映し出してきた。本研究は、これまでアカデミズムのなかで等閑視されてきた、屠畜・食肉の表象のあり方について、主としてフランスとアメリカの映画作品を資料として検討するものである。屠畜・食肉の表象を分析するのに映画というメディウムに注目するのは、屠畜と小売りが不可分であり職人がその作業を一手に請け負っていた前近代の様態から、屠場が、屠畜機能を小売りする場所から切り離され郊外へと移されて、近代的工場へとその姿を変えたとき、ムーヴィング・ピクチャーとしての映画こそがそのブラック・ボックス化した近代屠場の内部を(ドキュメンタリーとしてあるいはフィクションとして)再可視化しようとしてきたからである。とりわけフランスとアメリカの作品に焦点を絞るのは、近代的大規模屠場が1860年代のフランスに初めて成立し、その後、アメリカで「フォード・システム」とも呼ばれたアッセンブリー・ラインによる流れ作業システムを導入して完成を見たからであり、そしてまた、1895年にフランスで誕生しアメリカで発展を遂げた映画が、その近代屠場の変化を(「歴史的事実」として、あるいは「隠喩」として)記録するからである。第1章では、屠畜・食肉の表象を後章で分析する前提として、(生きた)動物の映画における表象のあり方を概観し検証した。その際、検証の足掛りとしたのは、映画製作に用いられる動物に対する虐待防止法の成立に多大な影響を与えた動物保護・動物福祉運動の歴史である。ヨーロッパでは近代に入ると動物が都市部から次第にその姿を消していったが、映画は、裏腹に、19世紀末のフランスで誕生するや否や動物を画面に登場させ、そのアクションを主体としたエンターテインメント化を推し進めた。しかし、そのとき既に映画は、19世紀半ばのイギリスで一定の完成を見ていた動物保護法の影響を受けて、とりわけ動物の死の表現に注意を払う必要にせまられていたのだ。かくて映画会社が製作にあたって動物の危険や死を回避しようとするなかで、スクリーン上の動物の身体はテクノロジー(模型・アニマトロニクス・CG)で置き換えられていく。無論、屠畜・食肉の表象もこのような制限下にかたちづくられることとなる。最初の屠畜表象を行ったと思われるリュミエール兄弟のトリック映画『機械式豚肉加工』(1896年)が生きた豚をブラック・ボックス化したメカニカルな機構のなかに投入し食肉に加工する描写に、既に動物の虐待・殺害の回避、あるいは動物身体のテクノロジーへの接続といった事態が見て取れよう。かかる機構のあり方はその後の屠畜描写のあり方を考える上で貴重な手がかりとなるだろう。第2章以降は、主として映画と近代的な屠畜(とその結果として生じる食肉)をめぐる2つの関係、即ち①映画とその背景にある屠畜・食肉(生産・消費)史の(より直接的な)関係、②映画と歴史の間に隠喩として形成される(より間接的な)関係を軸として検証を行った。まず第2章では、3本のドキュメンタリー(『獣の血』、『肉』、『いのちの食べかた』)がどのように屠畜・食肉を表象してきたかを具体的に見た。また、背後に垣間見える(主に生産にまつわる)屠場の歴史を確認しながら、それら作品の構造と表象の分析を試みた。ジョルジュ・フランジュ監督による『獣の血』(1949年)は、ブラック・ボックス化した屠畜・食肉生産の実態を白日のもとにさらす。そして1940年代のパリの屠場を、それが前近代の名残を留めてもいるが故に、聖性と汚穢の両方をあわせ持つ特権的な場所となっていることを(シュルレアリスムの実践として、あるいはバタイユ的に)提示する。フレデリック・ワイズマン監督による『肉』(1976年)は、1970年代のアメリカ・コロラド州のミート・パッキング工場に取材する。この作品では、アッセンブリー・ラインを備えた一大工場と化した近代屠場が、そのメカニズムを円滑に機能させるための部品として(職人とは最早呼べない)労働者を飲み込む様が描き出される。ニコラウス・ガイルハルター監督による『いのちの食べかた』(2005年)では、どことも知れない場所で稼働するオートメーション化の進んだ最新鋭の屠場が、他の様々な食品工場と併置されるかたちで提示される。このドキュメンタリーにおいて、屠畜・食肉生産にまつわる表象はもはや特権的・象徴的地位を失い、グローバリズムのなかに埋没しつつある。第3章では、3本のフィクション映画における屠畜・食肉の(主に消費にまつわる)表象を、それぞれの映画(ジャンル)史的背景についても留意しながら、検証した。1950年代末にシカゴの精肉会社スウィフトが製作した短篇・産業映画『カーヴィング・マジック』(1959年)は、アメリカの中流家庭で開かれるホーム・パーティーを舞台として、当時、大量生産品として家庭に流通し始めたばかりの塊肉(牛・豚・羊・七面鳥)の切り分け方を伝授する。ハーシェル・ゴードン・ルイス監督によるスプラッター長編『血の祝祭日』(1963年)のなかでも、アメリカの中流家庭でホーム・パーティーが計画されるが、ただし、そこで食卓に供される寸前までいくのは、同じ塊肉でも人間の女性を材料としたそれである。フランスのギャスパー・ノエ監督による1990年代初頭のパリを舞台とする中編スリラー/ホラー『カルネ』(1991年)の中年主人公はかつてパリで馬肉屋を経営していたという設定で、彼はラ・ヴィレット屠場と小売り店のどちらにも就職できず、両者の「中間」をさまよう間に娘に対する性的欲望を肥大させ、殺人を犯す。『カーヴィング・マジック』では、ホーム・パーティーにおいて塊肉(とりわけ七面鳥)をうまく切り分けられるかどうかが最大の出来事として提示されるが、その技術の習熟度はつまり男/夫/父が家長として有能であるか否かをはかる尺度となっている。夫不在の(ということは制御不可能となった)ホーム・パーティーは『血の祝祭日』でそうであったように、家父長制を戯画化したようなかたちで女性を切り刻み、その身体部位の視覚的な開示をもっぱらとする「怪物」的登場人物を呼び込む契機ともなる。そして、そのような「怪物」的登場人物たちは、屠場とも小売店ともつかないあのブラック・ボックスからやってくるのではないか。『カルネ』の半ば「怪物」と化した「元」馬肉屋の置かれた中途半端な状況がそれを象徴する。畢竟、屠場を扱い相互に言及しもするこれら仏米のフィクション映画群は、主に食肉の消費をめぐって歴史的かつ日常的に形成されてきた強迫観念や恐怖を、作家性というよりはジャンル性(取り分け屠畜に関与しない/できない「怪物」を主人公とするホラー)に依拠しながら、視覚的に誇張していた。それが便宜的な区分でしかないにしても、「映画の外部」に実在する/した大規模屠場を主たるトポスとし、そこで行われる屠畜/生産される食肉をカメラに捉えようとするドキュメンタリーと、「映画の内部」に(主に人工のセットとして)仮構される小規模屠場(ないし食肉小売・加工店、あるいは家庭)でそれを捉えようとするフィクションとでは表象の質が違っていて当然だろう。しかしまた、屠畜・食肉をめぐっては、ドキュメンタリー、フィクションの枠組みを超えたところで(これも当然のことながら)共通の議論が導き出される。そこで第4章では、まず、現実との関係のなかで、ジャンルを問わず映画のなかに生じる屠場の隠喩的表象について論じた。一つ目は資本主義の抑圧的メカニズムである「工場」という隠喩である。最新の工場としての屠場は1860年代に成立するが、程なく屠場の技術革新の中心はフランス(ラ・ヴィレット)からアメリカ(シカゴ)へと移る。一般的に信じられているのとは逆に、「フォード・システム」と呼ばれるアッセンブリー・ラインは、シカゴの屠場の高架レールによる流れ作業システムをこそ手本として誕生した。映画においてしばしば人間を家畜化し抑圧するシステムの隠喩として用いられる屠場は、そのような事態に無意識的に自己言及しているように思われる。例えば、チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』(1936年)の冒頭では、(おそらくは屠場へと)追い立てられている羊の群れが地下鉄の出口から工場へと急ぐ労働者の群れへとオーヴァーラップされ、彼らが行き着く先が屠場とたがわない死の工場であることを暗示する。第2に、屠場は「戦場」(引いては「戦争」全体)の隠喩として用いられてきた。とりわけ第一次世界大戦以降、屠畜や食肉は戦場における極度に破壊破壊された身体と引き比べられるようになる。戦場を表すのに屠場(abattoir)や肉屋(boucherie)といったフランス語が用いられるようになる背後には、20世紀初頭、食肉産業の機械化と戦争の機械化が同時に起こったという歴史的事実があったのであり、かくて人間を戦争機械に、戦場を戦争工場に、そして戦場を屠畜・食肉工場として描く隠喩が成立する。映画におけるそのような表象の例として、クロード・シャブロルの『肉屋』(1969)などが挙げられる。この「戦場」という隠喩は即座にナチス・ドイツが「ユダヤ人」を家畜以下の存在として「処理」した絶滅収容所へと敷衍されることとなる。無論、それは機械的に動物を屠る近代屠場と引き比べられたのである。そのような隠喩の映画的表象の例としては数多の低予算スプラッター映画、あるいは昨今のSF映画を挙げることができようが、たいていの場合、それは、怪物的登場人物(SF映画においては官僚制度それ自体)が人間を食用に供するために機械的殺戮を繰り返すという紋切型に陥る。しかし、例えばニック・パークのストップ・モーション・アニメ『チキンラン』(2010)は粘土製の「動物」を人間的に描くことで、人間の動物化というホロコースト表象が陥りがちな凡庸を(あえてナチス風の征服を着た女性を登場させながらも)異化してみせた。第4章ではまた、聖性と汚穢という主題をめぐって形成される屠場とシュルレアリスム、そしてそれらと映画表象との密接な関係について論じた。1920年以降のシュルレアリスム運動において、屠場は、バタイユ、ロタール、ブニュエルらによって聖性と汚穢が混在する場として描出されてきた。『獣の血』(1949)、『カルネ』(1991)といった先に挙げたフランス映画は、そのような捉え方を踏襲している。『獣の血』が、かかる屠場の両義性をイメージとして定着させたのに対し、後者は、もっぱら汚穢、呪いの場所としての屠場の性格を前面化する。『カルネ』が、シュルレアリスムというよりむしろアメリカ製恐怖映画へと接近するのは、そのような屠場の負の側面を「怪物」(的登場人物)という外部に託して切り捨て、社会の安寧の回復を是とするからである。さらに、ここでは、食肉・屠畜を主題とする(あるいはそれに言及する)一群のフランス映画に共通して見出される傾向についても言及した。つまり、フランスは自国の対独協力をめぐって独自の映画史を形成してきた。『獣の血』、『パリ横断』(1956)、『万事快調』(1972)、『終電車』(1980)、『デリカテッセン』(1991)、『バティニョールおじさん』(2002)といった映画群がそれである。これらの作品は、映画史的には対立的に捉えられもする「良質の伝統」と「ヌーヴェル・ヴァーグ」の関係を相対化しつつ、「ホロコースト」、「ヴィシー症候群」といった主題を屠畜・食肉を通して寓話化・政治化するのみならず、戦後のフランスにおける検閲問題をも逆照射している。以上のような議論を踏まえ、結論では、屠畜・食肉の映画における表象が単に比喩による「ブラック・ボックス」への封じ込めであってはならないのではないかと提言した。今後必要とされるのは、聖性と汚穢、生と死が混ざり合うトポスとしての役割を、オートメーション化が進む最新鋭の屠場のなかにすらもう一度見出そうとする困難な試みなのかもしれない。あるいは、そこがテクノロジーと動物身体の融合する最終地点であるとするならば、屠場(屠畜・食肉)を映し出すスクリーン上にどのような映画的運動が生起しているのかを見届けること。本論文がそのためのコーパス整理・探究の端緒を開けたのだとすれば幸いである。
2015-03-31
甲第250号
博士
表象文化学
学習院大学大学院
396
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