Departmental Bulletin Paper 「少年倶楽部」名編集長・加藤謙一と流行作家・佐藤紅緑との運命的な出会い
Fateful Encounter of Kenichi Kato,editor-n-chief of “Shonen Club” and poplar writer Koroku Sato

齋藤, 三千政

6 ( 1 )  , pp.111 - 120 , 2015-03-31 , 弘前医療福祉大学紀要編集委員会
ISSN:2185-0550
NCID:AA12475995
Description
p.120は本文なし
富田尋常小学校の青年教師だった加藤謙一が、自らの手で学級雑誌「なかよし」を発行したところ、子どもたちが非常に喜んだ。その喜ぶ姿に意を強くし、自分のクラスの子どもたちだけではなく、全国の子どもたちを喜ばせたいとの夢を追いかける。そして、出版社への入社を決意し上京する。この決意が佐藤紅緑との〈運命的な出会い〉の遠因となった。しかし、子どもたちと泣きの別れをしたにもかかわらず、その夢の実現には厳しい現実が待っていた。やっとのことで加藤謙一は講談社へ入社することができた。のちに雑誌「少年倶楽部」の名編集長という高い評価を得ることになる。 一方、佐藤紅緑は明治末期に小説、脚本で文壇から注目され、大正期には流行作家としてその地位を確立する。その加藤謙一と佐藤紅緑が大正時代末期に出会うことになる。ともに弘前出身で、謙一の父と紅緑は知己の間柄であったことから、加藤が紅緑に「少年倶楽部」への原稿を依頼した。ところが、紅緑は烈火のごとく激怒した。だが、加藤の必死の説得が功を奏し、紅緑の原稿が届く。この二人の出会いが、日本の雑誌界に衝撃を与えることになった。すなわち、「少年倶楽部」の昭和2 年5 月号から、紅緑が「あゝ玉杯に花うけて」の連載を開始するやいなや、全国の少年たちは興奮の坩堝と化したのである。親たちや先生方からも絶賛の声が上がった。この作品が連載中に「少年倶楽部」の売り上げは、じつに30万部から45万部へ跳ね上がったというのだ。佐藤紅緑は少年小説によって一世を風靡し、児童文学の世界に金字塔を打ち立てた、と評価されたのである。
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