Technical Report 博覧会と農作物の産地ブランドの形成 : 近代日本の「青森」「津軽」の林檎に注目して

白井, 泉  ,  シライ, イズミ  ,  Shirai, Izumi

16-19pp.1 - 30 , 2016-07 , Graduate School of Economics and Osaka School of International Public Policy (OSIPP) Osaka University
Description
本稿は,博覧会が,農作物の産地ブランドの形成にいかにかかわったのかを明らかにすることを目的とした。具体的には,明治政府が殖産興業政策の一環として1887 年以降開催し,近代日本の博覧会のモデルともなっていった内国勧業博覧会(以下,内国博と略記)に注目し,競争の舞台としての博覧会の性質を整理したうえで,「青森」と「津軽」を例に,これらの地域が博覧会をひとつの足がかりとしながら林檎の有力産地として台頭していく過程を描いた。分析からは以下のことが示された。内国博は,出品者が個々に競う場であったが,主催者や,商人を含む来場者の視点からはそれと同時に,府県が互いに競う空間として映るものであった。そのため,ある府県ないし地域が特定の生産物を博覧会に多数出品し,褒賞を獲得し,その生産物の優れた産地であるとの認識が広まれば,同じ産地の当該商品の販路は拡大し,市場における評判の確立にも繋がる。そしてその利益は,その地域を拠点に経済活動を営む出品者以外の人々も広く享受するようになるであろう。こうしたことから,地域のなかには組織的に博覧会にのぞむところがでてきたと考えられるのであり,また,それを実践することにより林檎の有力産地として駆け上がっていったのが,津軽地方を中心とする青森県であった。林檎は1870 年代以後政府が中心となり海外から導入を進めた新種の果物で,当時の日本の人々は,数ある品種のなかから赤くて艶があり甘みの強いものを好んだのであるが,青森県の林檎栽培家はそうした人々の嗜好に適した林檎を作り,博覧会で他府県を上回る褒賞を得るようになっていった。それが実現した理由としては以下が挙げられる。第一に,旧弘前藩士族らが立ち上げた津軽産業会なる民間団体が,「官」を巻き込みながら,人々が切磋琢磨し競争に慣れていく場,ならびに全国的博覧会への予選ともなる品評会を開催していたことである。第二に,同会の核となった有力者らが,研究を通じて蓄積してきた林檎の栽培および輸送の方法に関するノウハウを,同会のメンバーを越えて広く産地の人々と共有する機会を設け,最大規模の博覧会であった内国博に出品する人々をサポートしたことも重要であった。このように,博覧会への参加がひとつの契機となり,「官」と「民」が連携し,個別に蓄積されてきた研究成果が指導者層から産地内に拡散し,人々が協力的かつ競争的に林檎の品質向上に努めるその過程で学習していったことが,林檎が生産と流通を経て消費者の手に渡るまでの要所要所で発揮されるようになっていった。さらに鉄道網の敷設など市場にアクセスする条件も整い,集団で量を携えて大都市への進出をすすめた結果,「青森」と「津軽」は,従来林檎の有力産地であった北海道や岩手県などを凌駕し,大都市の青果物市場においてその名を高めていくことに成功した。これは博覧会の経験なしには達成しえなかったことであろう。

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