紀要論文 操作される文脈 -尾崎放哉作品の同時代受容について-
ソウサ サレル ブンミャク オザキ ホウサイ サクヒン ノ ドウジダイ ジュヨウ ニ ツイテ

重永, 楽  ,  シゲナガ, ラク  ,  SHIGENAGA, Raku

(30)  , pp.49 - 64 , 2015-07-10 , 千葉大学文学部日本文化学会 , チバダイガクブンガクブニホンブンカガッカイ
ISSN:0385-7980
NII書誌ID(NCID):AA12576416
内容記述
尾崎放哉は、大正後期に雑誌『層雲』を中心に活躍した作家であり今日でも人気が高い。その<作品>は孤独の境地を表したといった意味合いでの評価が多くされ、放哉の実生活にも注目が集まることは多い。瀬戸内は小豆島の小さな庵に独り暮らし句作を続け、世を去る。そうした俳人としての最期の語られ方は、自身の人生と藝術が結合したかの様に思われる要素を多大に含んでいる。しかし何故その様な最期に行き着いたのかという疑問や興味も人々の間には生じる様で、後世の作家や研究者にもそういった視点を持つ人間は少なくなく、放哉にはその評伝も数多く存在している。畢竟そうした評伝の多さという点から考えてみると「放哉の〈作品〉を理解する為にはその人間性や生き方に注目することが必要である」という立場が受容者の一定型になっていることが導かれる。さて、その〈作品〉の独創性を論理づける為に、その〈作者〉の来歴や生活態度を結びつけ、〈作品〉の世界を補完し受容して行く、こうした文脈のとり方が放哉の〈作品〉を読む上で現代に至るまで連綿と続いていることは興味深い。特に放哉の〈作品〉鑑賞に於いては、その書簡を〈作品〉と密に関連させながら解釈をしていくという方法が今日までしばしばとられてきた。確かに、放哉という〈作品〉の〈作者〉が私的に綴った文章の方が、第三者が放哉という作家を説明するよりも直接的にその〈作者〉を知ることが出来る様に思われる。しかし単純に書簡の内容から〈作品〉はこう理解すべきである、と結論付けることは〈作者〉を絶対化しその解釈に他者を一切介入させないこととなってしまう
ため、しばしば〈作品〉そのものが持つ魅力を見落とす原因となる。ただそれでも放哉の作品を読む上で書簡が重要視されてきたことには、一応の理由、文脈が存在している。放哉の書簡は、その作品発表の場である雑誌『層雲』上に、放哉の死去から三ヶ月も経たない大正十五年六月から翌昭和二年四月にかけて公開されたのが初出となる。放哉の死去が大正十五(一九二六)年四月。その〈作品〉の多くが公開されたのは大正十三年から大正十五年までの期間であり唯一の句集『大空』が刊行されたのも大正十五年七月のことであるため、書簡はほぼ同時代に於ける作品受容過程の中に組み込まれてしまっていたことがわかる。また『大空』にもその書簡は一部収録されており、『層雲』誌上で公開された書簡のすべてがまとめて『放哉書簡集』として昭和二年に刊行されていることを考えると、その〈作品〉受容環境は書簡に左右されるかなり特殊なものであったと見ざるを得ない。その様に自由律俳句の〈作品〉だけでなく放哉という〈創作者〉の「生活」や「心境」が書簡によって〈作品〉と並ぶ形で見せられていたことは、おそらく研究史上あまりにも当然のこととして扱われてきたが為に、同時代受容の在り方に於ける意義と功罪について幾分見過ごされて来た様に思われる。それは、その内容に注目するあまり、書簡が公開されたことによって生じる現象が見過ごされてきたという意味である。つまるところ今日までの「放哉」の作品理解や評価の文脈はその死後急速に形成された神話的要素に溢れたものと考えられ、そのことが本論の出発点ともなっている。志賀直哉や夏目漱石といった作家
に関する多くの先行研究に代表される様に、作家が〈作品〉自体の出来や評価からではなく、その創作態度や人格を神聖なものと評する言説により名声を高めて行くことは明治大正期の文壇の中でしばしば見られた現象であった。放哉という〈創作者〉の像も、そうした例と同様、その〈作品〉以外の別の媒体による情報が、その印象形成の大部分を担っていたといえる。以下、その過程を少し丁寧に辿って行きたい。
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http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AA12576416/30_49-64.pdf

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