会議発表論文 On the emancipation of materia medica studies (honzōgaku) in early modern Japan

Michel, Wolfgang  ,  Michel, Zaitsu

内容記述
Since the pioneering work by the phytopathologist and natural historian Shirai Mitsutarō (1863–1932), the beginnings of genuine native studies on Japanese herbs have been linked to Kaibara Ekiken’s book “Japanese Materia Medica” (大和本草 Yamato honzō) published in 1709.[1] However, a closer look that includes Dutch source material from the second half of the 17th century reveals that there was more to this process of emancipation from Chinese herbology than the individual ingenuity of a neo-Confucian scholar. The harsh economic realities of the archipelago had a strong influence on all political decisions related to resources, imports, and exports from the very beginning of Japan’s Edo period (1603–1868). During the 1650s, the adoption of Western medicine led to the introduction of herbs and drugs that were not known hitherto and were imported from the Dutch East India Company. Insufficient and high-priced supply eventually stimulated an attempt initiated by the imperial councilor Inaba Masanori to start local production of certain medical materials and to investigate local plants, while requesting seeds and plants from the Dutch East India Company and the dispatch of herb specialists. Joint Dutch–Japanese botanical investigations and instruction about imported and local plants by European physicians and pharmacists provided a reference point (tertium comparationis) that enabled their Japanese counterparts to achieve a new view of such Chinese herbals as the “Principles and Species of Materia Medica” (本草綱目 Bĕncǎo gāngmù) while heightening their awareness of the distinctive properties of indigenous Japanese flora. About five decades before Shōgun Tokugawa Yoshimune (1684–1751) implemented his famous “herb policy”, almost identical attempts were made under Tokugawa Ietsuna (1641–1680). These activities faded out with the accession of his successor Tokugawa Tsunayoshi (1646–1709), but herb studies continued to be a common field of interest for Japan as well as for the Dutch East India Company throughout the Edo period.
日本独自の本草学の始まりは、これまで多くの研究において、福岡藩の本草学者・儒学者の貝原益軒による宝永6(1709)年の『大和本草』の出版や、第8代将軍吉宗による享保の改革の一環としての「薬草政策」と関連づけられてきた。しかし、当時の背景を確認してみると、そこには単に一人の儒学者の活動にとどまらない動きが見られるし、吉宗の改革を促した苦しい財政事情は、それ以前から歴代の政権に重くのしかかっていたことがわかる。また、日本の本草学の誕生を語る上で、特に見過ごしてはならないのは西洋医学との出会いである。 いわゆる紅毛流外科が芽生えた慶安3(1650)年以降、オランダ東インド会社への薬品、薬草、書籍、器具類の注文が、かつてない勢いで増え、出島商館長日誌には日本人による外科医への相談や往診依頼に関する記述が次第に多くなる。洋書輸入規制を緩和し、オランダ語学習を奨励し、薬草の国産化を進めた吉宗の政策はよく知られているが、薬学、医学及び航海術に関する書籍の輸入はすでに寛永18(1641)年に正式に認められており、薬草の苗や種、製薬技術の供給を求める動きも、吉宗より約半世紀前の4代将軍家綱の時代から活発に見られた。寛文7(1667)年に幕府はオランダ東インド会社に対して薬油を抽出できる専門家の派遣と、そのために必要な器具並びに繁殖用の薬草の種と苗の提供を求めた。寛文11(1671)年に大型蒸留装置を持参した薬剤師ブラウンが、幕府の経費で建てられた「油取家」で蒸留術の訓練を開始した。単純な蒸留法から、7日間を要する複雑な樟脳油の製造方法までの伝習は短期間で実を結び、3ヶ月後には日本人医師がブラウンの手を借りずに各種薬油を製造できるようになった。 薬油蒸留と平行して、長崎湾内の合同薬草調査も数年間にわたって行なわれた。加福吉左衛門、楢林新右衛門(鎮山)らの阿蘭陀通詞によってまとめられた報告書は長崎奉行を通じて幕府に送られ、後に『阿蘭陀外科指南』(1696年)などの医書に掲載された。とはいえ、本草学の金字塔である『本草綱目』が軽んじられた訳ではなかった。延宝7(1679)年に成立した「阿蘭陀草花鏡図」には、「薬草見」ブラウンの説明した内容だけでなく、中国の知識も豊富に盛り込まれている。当時の史料から、「西洋人の眼」を借りて地元の植物界を観察した人々が、それまで万能と思われていた中国の本草学の限界と、国内外の植物の違いを認識するようになったことがわかる。合同薬草調査で得られた情報と『本草綱目』との相違点を指摘する「阿蘭陀本草図経」の序文は、このような姿勢の広まりを裏付けている。それでも「阿蘭陀草花鏡図」に見られる様々な用語と引用からわかるように、紅毛人の教示を解釈、受容する際に、中国の豊富な知識が相変わらず利用されていた。 福岡藩医だった貝原益軒は舶来の薬品にも関心を寄せ、長崎湾の合同薬草調査に立ち会った通詞楢林鎮山とも親交があった。日本独自の本草学の起源とされる益軒の『大和本草』の端緒は、その40年ほど前に行なわれた日蘭合同の薬草調査に遡るものである。この合同薬草調査の成果はバタビア総督府にも報告され、植物資源の商品価値を常に意識していたオランダ商人の目を日本の植物に向けさせることになった。それまで紅毛人による情報収集を基本的に禁止していた日本側が植物調査の有用性を認めるようになったことで、後のケンペル、ツンベリ、シーボルトらによる日本の植物研究が進み、それに関する日欧間の情報交換も含めて、本草学は日蘭交流が大きな成果をもたらした分野の一つとなった。
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http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1546103/Michel-Japanese-Honzogaku-2015.pdf

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